jinsei3

その後いろいろあったなあ。

いろいろと道を踏み外したように思う。

 

前に書いたネットでの出会いに取り組んでいた。

そしてもちろんそこで、いろいろやった。

普通に会うようになったし、同時にいろんな人とLINEをして、

いろいろなことをするようになった。

 

簡単だった。

だって、相手が愛情に飢えていて、そして僕はそれを仮想的に提供するだけ、。

可愛いとか適当なことを言っておけば、相手は落ちる。

イージーゲームだ。

 

でも、そんな風に饒舌なのはネット上だけで、リアルで対面しても

うまくいかないんだよ。

だから、関係が長く続くのは3、4人くらいだったかな。

わからん。

 

でもやっぱりそんなことをしてしまうのは、自分が愛情に飢えていたからだ。

 

だから、僕はこんなことをしていたのだ。

 

愛情が欲しかったのは自分だ。

いや誰かを支配したかっただけだ。

自分の配下に誰かを置いて、そしてそれをうまく操縦したい。

そんな下衆な感情で、いろんな女の子を扱ってしまったことを、

深く反省する。

 

そしてまた現在進行形で、そんなことをしてしまっている。

どうすれば抜け出せるのだろうか、本当に人を愛することなんて自分にできるのだ老化。

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高校生の部活までは記事で書いたね。

高二、多分人生最大の、苦痛を受けていた時期かもしれない。

 

嫌いな人間と関わるストレスや、その他もろもろ家庭のこともあったりして、

胃がずっと痛くて、ガスがずっと溜まっていた。

それが関係するのかはわからないが、体臭がきつくなった。

もちろん、単に成長したからかもしれなかたけど。

 

でも、そう言うデリケートな問題って親に相談しづらいし、そもそも普通の問題であっても親に言えない自分だった。

だから、黙って消臭剤や、ファブリーズを買ったり、制汗剤を買ったりしていた。

でも、全然ダメで、そもそも正しい対処法も知らなかったから、

教室中が臭いって言われるくらいのものになっていた。

だって、風呂に入っても匂うくらいのものだったのだから、もうどうしようもないもん。

 

そして、それを当時好きだった人に言われたり、クラスの女子に言われるのがキツかった、あいつらさ酷くてさ、もうわざと聞こえるように言うんだぜ。

そう言えば、そのころ何かと理由をつけて部活をサボるようになっていたな。

だって、朝から行くと、汗かくし、そしてそれで匂うって思ってたからさ。

 

しかも部活に行くと、汗かくし、そしたら部員にも臭いって思われるんじゃないかって。疑心暗鬼で、どんな音も「臭い」って音に聞こえるようになった。

咳払いや、鼻すすりのおと、全部が自分の匂いへの当てつけて、

臭いぞって伝えて来ているように思えた。

 

 

そんな精神状況で、何もうまく行くはずがなかった。

 

まあ、ここからはそんなにイベントもなく、いやちょっとあったけど、ほぼ同じだから省略。

 

なんだかんだあって、大学へ行った。

 

もちろん先ほど行っていた、体臭問題があったもんだから、

人と関わることが怖かった。

 

電車に乗ることも、授業を受けることもとんでもないストレスであった。

めっちゃサボったし、そこそこな値段の制汗剤を買ったり、

脇が手術を受けようとしたりいろいろ工夫していた。

 

強い制汗剤って、塩化アルミニウムがどうとかで、とても強い痒みを伴うものだった。

もちろん、それを塗れば汗はほぼ止まるのだが、痛いくらい痒いんだ。

だから、それを塗って、よるに一人で痛がっている時間が本当に惨めだった。

普通の体で、臭くなければこんなことしなくて済むし、普通に大学生活を送って、

普通の人間として生活できたのにって。苦しいよりも、悔しかった。

 

涙もよく流していた。

zinsei

今思えば、人生の難点と言うか、上手くいかない原因と言うものがはっきりと見える。

その当時は、気づかなかったし、それについてとても悩んでいた。

いま、人生を俯瞰でみれる余裕ができて、そして自分の人生を見たり、

そして他人の人生を想像してみたりして、勝手に納得感を得たりしてる笑

 

人間は生物で、人生を思うがままに操る事はできないものだ。

縁起というか、何か運命に操られて生活している、たとえそれに気付いていなかったり、

またそれを認めない人も多い、というかほとんどがそんな人たちだろう。

 

でだ、そこで自分の人生を真に振り返ってみようと思う。そして納得感をまた得たいし、

あなたの人生を振り返る上でも、何か僕のこの文章が役に立つかも知れない。

最近、振り返りが多いけれど、まあいいじゃないか、そういう時期なんだから。

 

幼少期の頃だ、まずこの時期に父親との関わりの記憶がない。

強いていうなら、僕の苦手な何かをやってきたり、はたまた僕の喋り方なんかを馬鹿にしてきていたな。

当時は、気づかなかったが、あれはかわいがりでは無くて、ただ僕をサンドバッグというかストレス解消に使っていただけだったな。

まあ、それでも僕はそれで喜んでいたと思う。

いきなり、これがうまくいかない原因なのだが、僕は嫌なことをされても、それに対して反抗することができなかった。

父親からほぼ日常的に嫌がらせをされていたのだが、それを嫌がらせだと思ったり、それに対して反抗したりする事はできなかった。

いや、最初の頃は反抗したり、嫌だと言っていたとは思う。

でも、子供に嫌がらせをするような父親だ、そんなことをすればもっとやられる。

だから、僕は反抗できなくなったんだと思ってる。

もちろん、母親はそれを止めなかった。自分に矛先が向くのが嫌だったのだろう。

 

これを書いている途中でいろんな嫌な思い出が蘇ってきたが、年表どおりかいていく。

 

祖父母の家ではよくゲームをしていたな。

でも、おれさ下手だったんだ。

いや、本当はゲームで失敗した方がみんな喜んでくれるから、無意識的に何か失敗をしていたのかも知れない。

これは今でも続いているように思う。

何かに全力を尽くして何かを達成することよりも、簡単に人に構ってもらえる方法。

もちろんそれで得する事はないのだが、そんなことよりも僕は他人に構ってもらえる方を選んだ。

それも無意識で。

人との関わりが恋しかったんだろうな。

人と、心がつながった経験がないのだから。よく考えてみれば、自分の行動は全て他人と関わりたかったかだろう。

 

あとさ、僕には出来の良い兄がいた。

身長も運動も勉強も、全てにおいて、うまくいく人間だった。

そんな人間と比べられて、勝てるはずがないし、勝てるイメージなんて1ミリもなかった。

だからそんな僕でも、他人に構ってもらうためにはダメ人間になる必要があったのだろう

ダメ人間でも、怠惰でいれば、説教でもいいから他人に構ってもらうことができるって学習したのだろう。

 

もう少し時を進めようか。

小学生に上がった頃だろうか。

夫婦喧嘩が増えた。

目の前で打たれる母親を見たこともあるし、兄が殴られるところだって見たことがある、

僕は従順だったので、そんな事はほぼなかったが、一度だけ蹴られたことがあったように思う。ちょっと忘れてたけど。

 

その影響か、僕は学校で喧嘩が起きたりすると、その仲裁役を買って出ていた。

そのことをはっきりと覚えている。

それは単に僕の正義感からでは無く、家での止められない夫婦喧嘩の代用のようなもので、

それを止めることで、何かを自分の中で解決しようとしていたのだろう。

もちろん、学校で喧嘩を止めたからと言って、夫婦喧嘩を止める事はできなかった。

よくあることだが、夫婦喧嘩があるのはダメな自分のせいだと思い込んでいた。

だから、真面目に、迷惑をかけずに、完璧であれば、きっと夫婦喧嘩がなくなり平和に暮らすことができるって本気で思っていたんだ。

 

でも、その甲斐もなく、夫婦喧嘩はどうにもできず、

そして学校でなぜか虐められるようになった。

正義感を振り回して喧嘩を仲裁しているような人間で、その上なんか残念な見た目をしていたからだろう。

そりゃ虐められる。

虐められるが、夫婦喧嘩ばかりの親に相談できない。最悪の環境だった。

いや、正確に言うと、「自殺したい」って一度だけ言ったように思う。

それはもちろん気を引くためであって、本気ではなかったのだが、

でもそれに対して過剰なまでの対応をされたため、それ以降もう相談する事は無くなった。

 

今思えば、この辺で無力感を学習したのだと思う。

何をやっても僕は何も変えることができない、努力しても無駄って。

 

それ以降の人生は、悲惨だったね。

無力感を抱えているから、嫌な人との関わりを断ることができなかった。

関われば不幸になる人間と、何年も過ごすことになった。

相手は僕を友達と思っていたかも知れないが、僕は一度もそう思った事はなかった。ごめん。でも、それが真実。

 

もちろん、その一瞬一瞬において、楽しいと感じる瞬間もあった、でも総合的に見て、それはない方がいい期間であった。

妥協、無力が僕の人生だ。

 

さあ、また時を進めようか。

僕の人生最大の、苦しかった期間かも知れない、小学三年生。

誰にも助けてもらえない、いじめ、それも担任、クラスメイト、そして親から。

苦しいと言う感覚も当時は持っていなかったかも知れない。

ただ、その場しのぎで、一日怒られなければ万歳って感じだったかな。

勉強も、どん底、宿題もしない、忘れ物も大量にある。

何にもできない自分。

苦しかっただろうな、自分。

 

相談するなんて言う選択肢もなかった。

虐められて当然の自分、そんなんだから余裕もなくて、忘れ物が多いのも、宿題ができないのも当然のことだったろう。

経験のある教師なら、そんなことも見抜けるのだろうが、相手は生憎若くそして自らも生徒をいじめるような人間だった。

だから当然頼ることなんてできない。

大人にさえ虐められるのだから、当然大人を信用することもできなかった。

 

僕にはほぼ、仲間はいなかった。

強いて言えば、一人だけ親友と言えるような人がいた。そしてそいつとは今でも、きっと仲良くできることだろう。

ああ、よくあるやつで仲良すぎで、連絡を取らなくなるやつだ。

 

そう言えば、女子にさえ虐められていた。

仕返しもせず、ただニヤニヤしているような人間なんて、格好の的なのだろう。

性格も、顔も何もかもそいつらは不細工だった。今思えば、家庭に余裕がない貧乏家庭だったのだろう。

弱い人間をいじめるのは、そいつよりちょっと強いくらいの弱い人間だと思う。

今思えば、虐めてきた人間は、塾で忙しい人間や、貧乏な家庭が多かった。

 

まあ、それは自分にも当てはまる。

余裕のない人間だったから、学年が上がってクラスが変わって調子に乗ったのか、

ある人間をいじめるようになった。

いや、まあ、そいつは学年全員から虐められるような人だったからいじめというよりも、

ある種のゲームみたいなものだったのかも知れない。

 

あ、その前に父親のひどい虐待について思い出した。

寝ているときに、体を触られたりするんだ。

もちろん、僕は男だ。

だからと言って、嫌悪感がないはずがない。

父親である、本当なら僕を守ってくれるはずの人間に、凌辱されたのだ。

触られただけだろって言う人もいるかも知れないが、それだけでも僕の自尊心を破壊するには十分だった。

 

それ以降、自分の存在を恥じるようになったように思う。

自分は恥ずかしい人間で、誰にも受け入れられる事はないって言う信念を持ったのかも知れない。

 

人前で話すのも、スポーツをすることも、踊ることも、歌うことも、

全てが恥ずかしかった。

逆に心を許した人間と話したりするのは、とっても心地よいものだった。

 

ただ、本当に心からの本音を、完全に出せる人には、多分出会ったことがない。

なんとあく、相手が欲しいであろう言葉を言ったり、はたまた自分が言いたいだけの言葉を吐いたりするだけの関係は、本音の関係とは言い難いだろう。

 

本音の関係とは、相手のためになることを言えることだと思う。

それはただ”優しさ”だけの関係ではないから、時に聞きたくないであろう言葉まで言わなければならないのだ。

それは、”優しい”人間にはできないものだ。

 

まあ、それはいい。

本題にまた戻ろう。

 

小五はいい時だった。

とても落ち着いていた。

だからほとんど問題がなかった。

 

問題は小六だ。

この時期は、思い出したくないほどに、残酷な時期であった。

いろいろあり、また両親からの関心を引けなくなり、

それでも関心を引こうといろいろ試行錯誤をしていたな。

でも、そんな甲斐もむなしく、ほって置かれていた。

いやあ、まあ今思えばほって置かれているほうが、まだマシだったかもしれない。

 

時に、八つ当たりもあった。まだ小学生なのだから、まあちょっと変なことも思いつくじゃないか。それを叱られた、変なことって言っても関心を引けなかったことから来る、何かだったのだけど。

まあ、それのおかげで、半日くらいずっと正座をさせられた。

よくわからんが、あいつにとって、それは拷問だったのだろう。

 

まあ途中で止めてくれた人もいたのだけど。

いやあ、懐かしいね。

そのころは、クラスでもいじめられていた。

障害者用トイレの中に数人で入って、そしてその中で僕が一発芸をする。

僕は恥ずかしがり屋だったから、その反応が面白かったのだろう。

今思えば、あれはいじめであったが、担任は気づくはずもなかった。

 

もちろん、彼らと完全に仲が悪いわけじゃなくて、時に仲良くしていた時もあった。

だからそのせいもあるのだろう。

でも僕には辛かった。

 

しんどい。

 

そのころはスポーツも上手くいかなった。

そもそもしたくてしてるわけじゃないから、上達しない。

発達障害や家庭のストレスから来るものなのかで、

運動はできなかった。

体をうまく動かすことができないのだ。

ある種、イップスのようなものだったのかもしれない。

とにかく、普通の人が練習すればできるような動きが尽くできなかった。

その上自分は数年スポーツを続けて来ていた。

 

だから、普通に考えれば、試合に出てちゃんと活躍するのが普通だろう。

でも、自分はそれができなかった。

挙げ句の果てには、メンバーから外され、その上親に来てもらって

お前の試合風景をビデオに撮ってもらえなんて言われたな。

 

惨めで、どこにいっても居場所がなくて、苦しい一年間だった。

その頃、自傷行為もしていた。

と言っても過激なものではなく、でも心理学を学んだ人ならその兆候を見逃すことはないであろうことだ。

僕も気づかずにそれをしていたし、それを見た親はそれについて馬鹿にして来ていた。

 

やめろと言って来たがその原因はお前だったのだよ。

 

まあそれもどうでもいいか。

 

その頃確か自分は好きな人がいた。

と言っても恥ずかしがり屋だし、声をかけることはなかったけど、まあたまに話す程度でも嬉しかった。

でも、すぐ顔が赤くなるもんだから、あいつのこと好きなんだろってちょっとしたいじりもあった。

 

本来、人を好きになることは神聖なことで、馬鹿にされるものではないのだが、

でもその時は親にもそう言うふうに馬鹿にされていたし、クラスでもそんな感じだったから、人を好きになることは悪いものだってなんとなく感じていたと思う。

でも、今思えば、もっと真剣に、小学生ながら、ちゃんと恋愛に取り組めばよかった。

 

少しでもいいから、自分の心の支えになるものが欲しかった。

ただ、君はありのままでいいって言ってくれる人がいるだけでよかった。

 

でも、現実が真逆だった。

自尊心のかけらもなかった。

 

そして中学生になった。

まあ、多少のしんどいことはあったけど、二学期くらいまでは順調だった。

 

でも、成績が悪かったもんで、それについてビシバシ言われたことを覚えている。

辛かった。いつもはほっておいたくせに、そう言う時だけ口を出してくる父親を、

嫌に思った記憶がある。

 

中二のクラスは最低であった。

いつもニヤニヤしている、気持ち悪い3人組がいて、そいつらが本当に嫌いだった。

そしてその中の一人にちょっとした嫌がらせをしたことを覚えている。まああの程度で許してやっただけ、マシだと思え!

 

 

その頃から、LINE掲示板を使って、女の子と連絡をするようになった。

多分そうだった。

そこで出会う女の子とはことごとく、残念な家庭で育ち、愛情を求めてそんな場所に来ていたし、それをわかっている俺天才、そして簡単にそいつら落とせるって思ってた。

まあ、実際、そこで出会った人たちと会ったりすることはなかったけど、

なんとなく適当に恋愛関係になったり、可愛い写真をたくさんもらっていたと思う。

 

まあ、その写真をもらうことが目的ではなく、自分のために面倒な写真を撮ってくれるって言う何か、支配をしているような感覚が好きだったのだと思う。

 

でもよく考えてみれば、自分の方がおかしかったんだよな。

俺の方が愛情に飢えていた。

だから、そんな場所で、女の子を適当に扱って、満足していた、

それに全く気付けなかった。

 

寂しくて、相手をして欲しくて、恋人が欲しくて、満たして欲しくて、

だからそこにいた。

ひどいこともした、。

 

でも、やめれなかった。

確か、受験の時にやめたのかな。

 

そのころはストレスが意外に溜まっていたのか、

学校でも問題を起こしていたように思う。

 

ま、、どうでもいいな。

 

高校に入った。

で、あまり記憶がない。

高一、中のいい女子ができたくらいかな。

その子とよく話していた。

僕がちゃんとした男であれば、ちゃんと告白して付き合えたのだろう。

今更だけどね。

 

部活動も、まあまあうまくいっていたと思う。

下手くそだけど、Aチームにちょっと行ったり、

ちょっと褒められたり、まあ中学時代とは比べ物にならないくらいだったと思う。

部活動に関して、ここで全部書いてしまおう。

 

ずっと文句を言っていたと思う。

劣等感や、いろんなものから来るもので、。

そしてとんでもなく、ストレスに弱かったから、試合ではイップスのような状態になっいた。

 

まっすぎにパスが投げれないし、ドリブルもできない、シュートもできない、

イージーなシュートも無理。

 

最悪の選手だったろう、そしてその上傲慢って。

 

でもそれでも僕をまあまあな頻度で使ってくれていたし、

なんならスタメンにまでしてくれた。

でもダメダメだった。

 

なんであんなに緊張する体質だったのだろうか。

でも、これも自分の実力を発揮したにもかかわらず、この程度なのかって言う、

そう言う風に思われるのが怖かったのだろう。

 

その違和感を、

違和感を、大事にしたい。

とにかく、人間の脳味噌で考えた何かよりも、

感覚を大事にしたい。

 

第六感というが、そういうものだ。

脳味噌は、進化の過程でだんだんと出来上がって来たが、

第六感はきっと最初からあったはずだ。

 

災害の前に、動物たちが暴れたりするなんていうが、

それもきっと人間で言う第六感、

動物で言う本能なのだろう。

 

これからの、

ここ最近気付いたのだが、

目標を叶える人は、目標を持っている。

 

当たり前?でも、そうでしょう?

目標を持たない人は、目標を叶えられないし、

そして何かを成すこともない。

 

あなたはどうだろうか?

自分はずっと目標を持たずに生きて来た。

だから、何か目標を達成したことはほぼない。

 

何か、周りに流されて目標を立てて、そして失敗した。

ずっとそうだった。

もちろん努力もできない。

 

ずっと何もできないし、能力も伸びないし、

何の取り柄もない、残念な人間だった。

 

悲しいな。

 

でも、だからこれからは、変えていこうと思う。

 

だって、惨めで残念な人生で満足できるわけがないじゃんか。

だから、

だから、僕はこの道を選んだ。

この道でしか、自分は生きれなかった。そして、それはこれからもそうだ。

自分はこの道で生きていく。

 

凸凹の道で、歩いているだけでも疲れる。

ただ、普通の人のように、働いて、食って、寝て、ができない。

僕は普通ではない。

それは僕が一番知っている。

 

でも、だから僕はこれで良いと思っている。え?どういうこと?

 

いや、まあそれはどうでも良いのさ。

 

僕は僕のレースに挑む。

自分しか走れない、自分のレースを。

勝ち負けなんて存在しない。

ただ、走るだけだ。

どんな思いで、生きて来たか、一度でも想像したことがあるか?

僕の人生は、ずっと惨めだった。

家庭では、ほぼ毎週夫婦喧嘩だし、勉強や運動の良くできる兄と比較され、

そして父からはいつも馬鹿にされ、母からは怒られ、

惨めだった。

 

でも、それでも自分は幸福なんだと言い聞かせていたように思う。

自分は運がいい、幸福だって。

だって、そうでも言っていないと、自分の惨めさに気づいてしまうから、

でも逆にいうとそれって、結局あの頃から惨めさに気づいていたんだろうな。

 

僕は勉強も運動も、できなかったから、そこで勝負せずに、

違う舞台で勝負した。

とにかくいい子になろうとして、学校のクラスでの喧嘩を止めようとしたり、

最近知ったのだが、あの頃は何かのイベントにおいてクラス代表を買って出るような真面目ないい子だったようだ。

自分さえ良い子でいれば、家族は仲が良くなって、自分も評価されるだろうって思ってたんだろうね。

 

まあ、そんなことしたって惨めなのは相変わらずだし、

父親から怒られる回数もとっても多かったし、何で怒るかわからないし、

とにかく怖かったことが記憶にある。

今思えば、僕が悪いから父親が怒っていたのではなくて、ただ仕事でのストレスを、

逆らわないのがわかっている僕で解消していたのだろう。

悔しいね。

 

まあ、そんな子供だから、子供らしいことはしたことがなかったような気がする。

こんなふうに行動すれば、きっと気に入られるだろうって、年齢なりに打算的に行動をしていたと思う。そのせいか、祖母から君は人によって態度を変えるね的なことを言われたのを覚えている。

そんな行動を幼い子供が取らねばならない異常な環境にいるんだと、そこまでの考えが及ばず、ただのずる賢い子供だっていう印象を抱いていたようだ。

思えば、その頃から、祖母を嫌悪し始めたように思う。

 

とにかく良い子でいたかった自分は、学校で何かあっても、例えばいじめられても両親に相談することはなかった。迷惑をかけてしまうことになるし、そうなれば捨てられるかもしれないって、本気で思っていたんだと思う。健気だね。

 

なんだかんだあって、父親が単身赴任になって何処かに行っている間は、落ち着いていたように思う。あの時は担任の先生もいい人だったおかげで、本当に救われた。

もしあの人が自分の両親であれば、全く違った人生を送っていたことだろうって、今でも思う。

 

中学校に入って、もっと惨めになった。

あの頃の自分は本当に最低だったように思う。

やってがいけないことをしたし、

でもそうでなければ、きっと今この世にいなかったと思う。

自傷行為もしていた、あの当時はそれがそうだと知らなかったけれど。

 

自分への価値を感じられない人は、きっと他人への価値も感じられないのだと思う。

だから簡単に他人を傷つけ、そして自分さえも傷つける。

 

部活動は一応運動部だったが、あいも変わらず運動は苦手で、ずっとダメダメのほぼマネージャー状態だった。

それでも真面目に雑用をこなしていたおかげか、先輩には評価してもらえた。

嬉しかったな。

 

まあ、ただいつも父親にいいように使われていたから、奴隷根性は身についていたし、

それに対して嫌だと思ったこともあったけど、文句もほぼ言わずに続けていた。

 

自己評価が低いから、自分にそのような雑用が相応だとさえ思っていた。

三年間続けて、得点は2点だけだったかな。

ずっと続けていたのに、正直悲しいし、情けない。

まあ、ただ向いていなかったんだろうな。

 

いや、それは言い訳か、努力することに、いいイメージがなかったからね。

努力よりも、才能で、才能のない自分が努力しても意味がないって思ってた。

 

でも辞めることは、一度も思いつかなかった。

自分にとっての取り柄がそれしかないのを自覚していたからね。

 

あ、今思い出したけど、中二の時にとんでもなく悪いテストの点数で、次も悪かったら部活やめろって、説教されたな。結局、勉強せず悪い点数だったけど、辞めることにはならなかった。

それも今思えば、ストレスを発散する理由として、自分の悪い点数がいいところにあったからだろう。別に本気で自分を思ってくれているんじゃなくて、ただ説教がしたかった父親。

 

なんだかんだあって、高校はまあ真ん中よりちょっと下くらいのところに入った。

その頃から、僕ら兄弟に諦めがついたのか、特に父親から成績や何かについての文句は少なくなったように思う。いや、もしかするとただその環境に適応して、文句を言われるような行動をしなくなっただけかもしれないけれども。

 

またまた振り返っている途中に思い出したけれど、そういえば僕はTwitterで友達を作っていた、それも女友達。ラインを交換して、できるあいだはずっとLINEをぽちぽちしていた。それもきっと愛情が欲しかったからだと思う。

相手を褒めれば、嬉しがってくれて、そして簡単に好きだのなんだのと言っていたように思う。そしてそれに喜ぶ相手を見て、なんて愛情に飢えている可哀想な子供なんだって、上から目線で見下していた。

本当は自分がそうだったのにね。愛情に飢えている、可哀想なこどもはお前だよ。

 

今思えば、僕らに興味がなくなった両親の代わりを、本能が探していたんだと思う。

でも、結局、愛情に飢えた人間同士ができるのは、お遊び程度の恋愛でしかない。

本当に愛し合うことなんて所詮無理だった。

本当の恋愛ではなく、相手に好きと言わせるゲームを楽しんでいたんだと思う。

最低だな、おれ。

 

それを、数年続けていた。

自分を求めてくれる相手を、彷徨って探していた。

そういえば、リアルでの恋愛は皆無だった。

自信のない自分は、ずっと待ちで、好きな人がいても、自ら動いたことはない。

相手から来るはずのない告白を妄想して、カッコつけていた。

 

そんな残念な自分が、態度でかくいれるのがネットでの恋愛だった。

簡単にかわいいねとか言って、好きとか言って、そんで付き合うようなことをしたいたね。

 

でも、そんな行動も、確かこうさんの秋にはやめた。いろいろあってね。

あと、単純に、リアルで、自分を好いてくれる女の子がいて、

その子とたくさん話すようになったからだったと思う。

楽しかったなあ。

 

あと、その子じゃないけど、好きな人がいて、その子を見るために毎日学校に行っていたまである。とっても美人な子だった。そしてその子に、体育大会の時のリレーで頑張れって言われてとっても嬉しかったことを数年経った今でも覚えている。

 

まあ、なんだかんだあって、卒業。

大学は、第二志望のところに入った。もちろん、やる気もなく、ただ勧められたところ受けて、そこにうかっただけ。モチベーションなんてあるはずがない。

 

友達もできず、ただ怠惰に過ごしていた。

時間もできたので、授業のない夏休みは、またTwitterで女の子を漁っていた。

もちろん、今度は欲望を解消するためにね。

自分は愛情に飢えていたから、愛情に飢えている相手の気持ちが手に取るようにわかった、どんなことを言われたくて、そしてどんなことを言えば、相手は受け入れてくれるのかを。

だから、結構簡単にデートというかホテルに誘うことはできた。

多分、4人くらいだったけな?

 

いや、ここまで来たけど、タイトル回収をしようか。

大学生になってから、父親からの命令が激しくなった。

何々をやれ、やれ、文句を言うな、俺が誰だと思ってる、お金を出しているのは誰だ。

僕の意見を一度も聞かず、ただ世間で正しいとされているようなことを、とにかくやれって命令をして来た。

もちろん、自分はそれに反抗することができず、とはいうものの、それをすることができず、苦しんでいた。

 

毎週のようにそれがあり、一時期は病院に何かは伏せるが何処かが悪くなり

病院に行くまでの症状がなった。

本当に苦しかったけれど、自分はそれに反抗できなかった。

それに反抗すれば、自分は生きることはできないって本気でおもっていた。

 

それが2、3度続いた後、事件が起きた。

思い出したくもないものだ。いや、事件って言っても警察が絡んだりする奴ではないよ。でも、自分にとっては、その後の父親への見方を変える、大きな事件であった。

 

幻滅した、結局この怪物は、僕たち家族のことを思っているんじゃなくて、

ただストレス解消の道具としてこれまで使って来たんだと気づいた。

僕たちのことを、家族と思っていないんだなって。

 

そこから、僕はほぼ世間との関わりを絶った。

正確にいうとちょっと違うけれども。

 

でだ、その独裁者である、彼は、、なぜあんな行動をしたのだろうか。

僕に気持ちがないと思っていたのだろうか。